一 昼休みの愚痴

二十七歳の田口は、昼休みにコンビニの弁当を開きながら言った。

「佐藤さんって、話が長いんですよね。結論までに昔の経緯が入るし、何を聞いても最後は自分の経験の話になる。頼んでいない助言も足すでしょう。新しいツールは、触る前から『うちには合わない』って言うし」

向かいにいた二十二歳の山本は笑った。入社して三か月。佐藤が四十七歳で、田口が入社五年目であることは知っていた。

「ああいうのが、おじさんなんですかね」

田口はそう言って、話を終えた。

この愚痴は、珍しいものではない。「おじさん」と聞いて思い浮かべるネガティブな像には、いくつかの決まった特徴がある。

  • 話が長く、結論が遅い
  • 昔の経験を持ち出す
  • 頼まれていない助言をする
  • 新しい方法を試す前に退ける
  • 相手より自分のやり方を優先する

もちろん、すべての中年男性がそうだという話ではない。では、なぜこれらが「おじさんらしさ」として束ねられるのか。加齢で柔軟性が失われるからだろうか。

その日の午後、少し違う場面があった。

二 二十二歳の新人

山本が、報告書の書式について田口に尋ねた。

田口は答えた。

「まず、なぜこの形式になっているかというと、三年前に書き方がばらばらで、問い合わせが集中したことがあったんです。そのときに整理して、いまの順番になった。だから、ここは変えないほうがいい。あと、これは聞かれていないけど、送る前に一度は自分で読み返したほうがいいです。僕は最初のころ、それをやらなくて怒られたので」

山本は礼を言った。それから、新しい共有ツールを使えば確認を一か所にまとめられるのではないか、と提案した。

田口は画面を見ないまま言った。

「うちのやり方だと、たぶん合わないと思う」

山本は何か言いかけ、画面を閉じた。

昼休みに田口が佐藤について挙げた特徴は、そのまま田口の受け答えにも出ていた。経緯から話し、自分の失敗談を添え、頼まれていない助言をし、新しい道具を試す前に退けた。

田口は二十七歳である。山本と同じく、一般には若者の側に数えられる。しかし、この部署では佐藤に次いで長い。山本にとって田口は、五年分の前例と発言力を持つ先輩だった。

ここで重要なのは、田口が偽善的だということではない。田口の判断には、それぞれ理由がある。

前に混乱した方法を避けることには合理性がある。判断の根拠を説明することにも意味がある。自分の失敗を後輩に繰り返させない助言は、親切でもある。慣れた仕組みを捨てる側が、乗り換えの手間を負うのも事実だ。

問題は、一つひとつが不合理なことではない。合理的な選択を重ねた結果、自分の型を変える機会だけが減っていくことである。

そして山本は反論しなかった。田口を納得させる利益より、入社三か月の自分が話をこじらせる費用のほうが大きかったからだ。

本人の中に境目はない

おじさんは、いつから始まるのか。

呼び名としての「おじさん」なら、他人がそう呼んだ瞬間に成立する。だが、ここで考えたいのは呼称ではない。しばしば「おじさん的」と呼ばれる思考や対人様式が、いつ定着し始めるのかという問題である。

本稿では、その状態を日常語として「おじさん」と呼ぶ。男性だけに生じる性質だと主張するものではない。

答えの候補はいくつかある。

候補 境目にならない理由
身体の変化 連続的に進む。四十歳の朝に何かが切り替わるわけではない
制度上の位置 後輩ができた日や役職に就いた日は特定できるが、思考様式がその日に変わるわけではない
他人にそう呼ばれた瞬間 呼称の境目にはなるが、本人の行動の変化ではない

三つとも、本人の内側に明確な段差を作らない。

ただし、外から観察できる反転が一つある。

誰が、誰に合わせるか。

若いうちは、様式を合わせるコストを自分が払う。上司の書き方に合わせ、先輩の言い方に自分を寄せる。ある時点から、それが反転する。後輩がこちらの書き方に合わせるようになり、自分が寄せる必要がなくなる。

おじさん化とは老化ではなく、調整コストの反転ではないか。

三 赤の入らない書類

四十七歳の佐藤は、前日に出した書類が、赤字の入らないまま戻ってきたことに気づいた。

気づいたというより、思い出した。若いころは、赤が入らずに戻ってくるほうが珍しかった。

一文が長すぎる。要件ごとに改行を入れろ。末尾には一言添えろ。言われたとおりに直し、次からはそう書くようになった。その積み重ねが、いまの彼の書き方になっている。

赤は、いつからか入らなくなっていた。上に回した書類はそのまま通る。部下から上がってくる書類は、彼の書き方に似てきている。

佐藤自身が完成したとは限らない。直す必要がなくなったのかもしれないし、直せる人が減ったのかもしれない。あるいは、直す費用を周囲が払わなくなっただけかもしれない。

本人には、その三つを区別できない。

能力を認められることと、修正されなくなることは、同じ事態の表裏である。経験を積んだ人には裁量が与えられる。その裁量が、外から更新される機会も減らす。

四 同じ人を別の場所に置く

その年の秋、佐藤は別の部門に異動した。

異動先は、彼が一度も関わったことのない業務を扱っていた。書式も、参照する資料も、承認の順序も違っていた。彼はその部署でいちばん新しい人になった。

最初の一か月、佐藤は質問をした。これはどういう順番で回すんですか。この欄には何を入れるんですか。手帳に書き取り、翌週また同じことを尋ねた。

前例を引くことはできなかった。彼が知っている前例は、この部署のものではない。

説明を求められたときは、結論だけを言った。背景から話し始めても、相手には意味がないからだ。

助言はしなかった。何が良い進め方なのかを、まだ知らなかった。

出した書類には赤が入った。この部署では、この順番では書かない。佐藤は、直されたとおりに直した。

異動の前後で、佐藤の年齢はほとんど変わっていない。それでも振る舞いは変わった。変化したのは年齢ではなく、彼が合わせる側に戻ったことである。

五 同じ日の別の田口

十一月の日曜、田口は市民体育館にいた。半年前に入ったバドミントンのサークルである。

三十人ほどいて、いちばん長い人は二十年通っている。田口は最も新しい部類だった。

コートの割り振りの決め方を、彼は尋ねた。以前いた場所の方法とは違っていたが、それは言わなかった。

自分より若い高校生も来ていた。田口は助言をしなかった。この場で何が良い振る舞いなのかを、まだ知らなかったからだ。

職場の田口と、体育館の田口は同じ人物である。意欲も柔軟性も、一週間で入れ替わったわけではない。

違うのは関係の構造だ。

職場で田口が長い説明をしても、山本は聞く。聞かずに切り上げることも、反論することも理屈のうえではできる。しかし、その選択の費用は山本の側にある。田口は説明の仕方を変えなくても、関係を維持できる。

体育館で田口が、二十年通う人に自分のやり方を押し出せば、その費用は田口に返ってくる。だから彼は合わせる。

人は、合わせているあいだ更新される。更新が止まりやすいのは、何かを失ったときではない。何かを得て、合わせなくてもよくなったときである。

研究から、どこまで言えるか

この説明をそのまま「おじさん」について検証した研究があるわけではない。ただし、仮説を構成する各部分には、隣接する研究がある。

Danescu-Niculescu-Mizil ほか(2012)は、Wikipediaと米国連邦最高裁の大量の対話を分析し、言語的な同調が権力差と結びつくことを示した。相対的に力の弱い側ほど、強い側の言語様式に合わせる傾向があった。これは職場の書式を直接扱った研究ではないが、「誰が誰に合わせるか」が対称ではないことを支持する。

Milliken、Morrison、Hewlin(2003)は、従業員へのインタビューから、上司に問題を伝えない理由として、否定的に見られる不安、関係を損なう懸念、言っても変わらないという感覚を整理した。山本の沈黙は、単なる消極性ではなく、発言の費用に対する反応として読める。

Tost、Gino、Larrick(2012)の実験では、力を感じることが他者の助言を割り引く方向に働く場合が示された。また、Dane(2010)は、専門知識が安定した認知の型を作る一方、条件によっては柔軟性を狭める「認知的固定化」を理論的に整理している。

これらの研究が示すのは、「中年男性はこうなる」という法則ではない。力の差が同調の向きを決め、弱い側の沈黙が強い側への修正を減らし、経験と裁量が既存の型を安定させ得る、という個別の傾向である。

本稿の独自仮説は、その点を次の一本の流れとして結んだところにある。

その場での経験と力が増える。周囲が合わせる。異論が届きにくくなる。自分の型を修正する機会が減る。その状態が、外から「おじさんらしさ」として観察される。

年齢を外しすぎない

ここで、年齢には何の影響もない、と結論づけるのは早い。

年齢とともに身体、認知、役割、家族関係、職業上の地位は変化する。長く生きれば前例も増える。中年層が組織の上位や中心に多い社会では、年齢と「合わせてもらえる位置」は現実に相関する。

したがって、本稿が示しているのは、年齢効果の否定ではない。「年を取ったから頑固になった」という説明だけでは見落とす、もう一つの経路である。

年齢が原因に見える場面の一部は、年齢そのものではなく、在籍期間、経験、役割、退出しにくい関係が作った非対称によって説明できるかもしれない。

この区別には意味がある。加齢は戻せないが、関係と環境は変えられるからだ。

六 一年後

異動から一年が過ぎた。

佐藤が出す書類に、赤は入らなくなっていた。順番も欄の埋め方も、この部署のやり方が身についている。

新しく配属された社員が、書式について尋ねてきた。佐藤は答えた。

「この順番になっているのは理由があって、去年、自分も同じところで直されたんですよ。だから、ここは変えないほうがいい」

言い終えてから、彼は一年前の自分の様式が戻ってきていることに気づいた。

「いつから」への答え

おじさんは、いつから始まるのか。

本稿で考えてきた意味でいえば、周囲が自分に合わせるようになり、自分のやり方を直される機会が減ったときからである。

この定義には三つの帰結がある。

第一に、可逆的である。環境が変われば止まり、また始まる。佐藤の異動と一年後がそれを示している。

第二に、年齢だけでは決まらない。二十代でも始まり得るし、年齢を重ねても新しい場の末席にいる人は更新される。田口の職場と日曜がそれを示している。

第三に、本人には見えにくい。反転は昇進日のような日付を持たず、周囲の小さな遠慮として進む。山本が閉じた画面は、田口にはフィードバックとして届かない。

それでも、確かめるための問いはある。

最近、自分のやり方を誰かに直された記憶があるか。

思い出せないなら、完成したのではなく、周囲が合わせる側に回っている可能性がある。

人は、老いたからおじさんになるのではない。直されなくなったとき、おじさんになる。

結び 末席に座る場所

私はこの一年、自分のやり方を直された記憶がない。役職のせいだけではなく、長くいるせいだ。長くいる人間のやり方に、周囲は合わせてくれる。合わせてもらっているあいだ、こちらは何も変えなくて済む。

この状態への助言として、新しいことを学べ、とよく言われる。それだけでは足りないと思う。知識を増やしても、その選び方、語り方、使い方を誰も直さないなら、自分の型の中に知識が増えるだけだからだ。

必要なのは、自分が合わせる側に置かれる場所である。

学ぶ場所というより、末席に座る場所を持っているかどうかで決まる。

田口が日曜に体育館へ行くのは、バドミントンが上達したいからだろう。それは同時に、自分が更新される場所を確保していることでもある。

彼はおそらく、そうは意識していない。

参考文献


※佐藤、田口、山本は、論点を示すために構成した架空の人物です。本稿は、個別研究が直接検証した結論ではなく、隣接研究を手がかりに提示する説明モデルです。

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