書かれた事実だけを読んでも、全体は見えない

一つの記事に、明らかな誤りはない。引用も数字も正しい。それでも、読者が受け取る全体像が歪むことはある。

増加率は書かれているが、実数は書かれていない。平均値はあるが、分布はない。ある政治家の失言は大きく報じられたが、後日の説明や訂正は短い。制度の恩恵を受ける人は紹介されたが、費用を負担する人は登場しない。

ここで起きているのは、虚偽というより選択である。

紙面にも放送時間にも限りがある以上、すべてを報じることはできない。取材対象を決め、記事を採用し、見出しを付け、扱いの大きさを決めることは、編集の本質である。問題は、選択があることではない。選択の基準が見えないまま、似た省略が繰り返されることである。

前稿「なぜ日本の『オールドメディア』には、リベラル寄りの論調が多く見えるのか」では、新聞やテレビが、理念としてはリベラルな言葉を使いながら、組織としては既存の取材慣行を守るという二重性を考えた。

今回は、その二重性を「報じない」という側から見る。

「表現しない自由」とは何か

日本国憲法21条は、言論、出版その他一切の表現の自由を保障し、検閲を禁じている。報道機関が権力から独立し、何を報じるかを自ら決められることは、民主主義に不可欠である。

ただし、本稿で使う「表現しない自由」は、判例や憲法学で確立した独立の権利名だと言いたいのではない。表現の自由には、何を掲載するかを選ぶ編集上の裁量が伴う。その反面として、掲載しない、放送しない、続報しないという選択も生じる。この日常的な編集権限を、あえて「表現しない自由」と呼んでいる。

その自由は必要である。政府が新聞社に対し、すべての政党の主張を同じ文字数で載せよと命じる社会は自由ではない。新聞が社論を持つことも、雑誌が専門分野を選ぶことも、自由な言論空間の一部である。

しかし、自由があることと、判断が中立であることは同じではない。

新聞社は、掲載しなかった記事について、通常は理由を公表しない。テレビ局も、企画を見送った理由を日常的に視聴者へ知らせているわけではない。読者が見られるのは最終的に残った記事だけで、その背後にある不採用原稿、削られた数字、外された発言は見えない。

編集の自由は、権力による検閲を防ぐ。同時に、編集部が持つ選択の権力を外から見えにくくする。

誰も命令していないのに、論点が消える

報道機関の外にも、参加しない自由がある。

主体 その主体にとって合理的な選択 報道側に生じ得る影響
スポンサー 広告を出さない、番組提供を降りる 民放や広告依存度の高い媒体が、企業イメージを損なう企画を避ける
読者・視聴者 購読しない、見ない、苦情を入れる 解約、視聴率低下、炎上を招きやすい論点を避ける
政治家・官庁 取材に応じない、情報提供を絞る 継続的なアクセスを必要とする記者が、関係悪化を予測する
企業・専門家などの取材先 出演しない、コメントしない 短い締め切りで成立しやすい企画や、協力的な取材先に偏る
記者・デスク・経営者 原稿を書かない、載せない、扱いを小さくする 明示的な圧力がなくても、組織内の自己抑制が起きる

もちろん、この表は一般的な可能性を整理したものにすぎない。NHKは広告を収入源としない。購読料の比重がある新聞と、スポンサーを基盤にする民放では条件が違う。政治家が取材を拒めば、かえって批判的な報道が強まる場合もある。

政治家については、保守とリベラルを一括してはいけない。媒体の社論に近い政治家には共感が働き、遠い政治家には厳しい論点を向けることがある。与党には政策決定権があり、野党には政権批判の情報源としての価値がある。さらに、同じ保守政治家でも、現職首相と党内少数派では、記者との力関係が違う。

したがって、「政治家がメディアを支配する」という単純な図でも、「メディアが政治家を選別する」という図でも足りない。双方が相手を必要とし、同時に相手から距離を取りたいという関係にある。

この関係の中で、一つ一つの回避は合理的である。広告主を失いたくない。読者を怒らせたくない。取材先との関係を壊したくない。誤報を出したくない。社内で企画を通したい。

しかし、全員が自分の損失を小さくしようとすると、批判の強い論点、説明に時間がかかる論点、味方と敵を簡単に分けられない論点が消えやすくなる。

検閲者はいない。それでも、報じられない領域は生まれる。

訂正は、なぜ最初の記事より小さくなりやすいのか

日本新聞協会の新聞倫理綱領は、誤報を速やかに訂正し、正当な理由なしに当事者の反論する権利を拒まないと定めている。理念は明確である。

それでも、最初の疑惑が大きく報じられ、訂正や不起訴、調査結果は目立たないという不満は繰り返し聞かれる。

個別事例を調べずに、すべての訂正が小さいと断定することはできない。ただ、最初の報道と訂正には、構造的な非対称がある。

疑惑、対立、危険は、新しい出来事である。ネガティビティ・バイアスによって注意を集めやすく、見出しにも映像にも向く。後日の訂正は、すでに知られた物語の修正であり、内容が複雑で、感情を動かしにくい。さらに媒体側にとっては、自らの判断の誤りを大きく示すことによる信用上の費用がある。

ここでも、悪意を仮定する必要はない。訂正を担当する側が、法的に必要な範囲を満たし、紙面を次のニュースに使い、組織の信用低下を抑えようとすれば、訂正は最小限になりやすい。

一方、報じられた側にとっては、最初の見出しと同じだけの人に修正情報が届かなければ、損害は回復しない。

「訂正を掲載した」という媒体側の手続きと、「誤った印象が修正された」という当事者側の結果は、別である。

この差もまた、悪意なき保身によって生まれる。

若者は、本当にオールドメディアから離れたのか

若年層が紙の新聞や定時のテレビ放送から離れていることは、印象だけではない。

2023年のスマートニュース・メディア価値観全国調査では、18歳から39歳のうち、新聞を毎日読む人は14%、テレビを毎日見る人は29%だった。一方、同じ年齢層の66%は、新聞の一面に載るニュースを重要だと答えている。

新聞という商品を日常的に買わなくても、新聞社が「重要」と判断したニュースの価値まで否定しているわけではない。この差は重要である。

日本新聞協会によれば、一般紙とスポーツ紙を合わせた2025年の発行部数は約2,487万部で、前年の約2,662万部から約6.6%減った。ロイター・ジャーナリズム研究所の日本版報告も、購読者の高齢化と、従来型メディアの入口としての地位がプラットフォームに脅かされていることを指摘している。2024年の日本のメディア利用では、インターネットよりリアルタイムのテレビに長い時間を使ったのは60代だけだったという。

国際的にも同じ方向は見える。ロイター・ジャーナリズム研究所が45市場を比較した2026年の分析では、18歳から34歳で、新聞を週に一度以上、現在利用しているか、過去に利用したことのある人は37%にとどまった。新聞を使い続ける割合は年齢層を問わず低い。テレビニュースは若者にも一度は利用されているが、利用経験者のうち現在も使う割合は、35歳以上の71%に対して18歳から34歳では51%だった。若者が年齢を重ねれば、親世代と同じように新聞やテレビへ戻る、と楽観できるデータではない。

ただし、これらの数字から「リベラル寄りの論調だから若者が離れた」と結論づけることはできない。

紙の料金、配達という仕組み、テレビの編成時間、スマートフォンの利便性、動画の短さ、ニュースを避けたい心理など、複数の要因がある。政治的に保守的な若者もいれば、従来媒体よりリベラルな価値観を持つ若者もいる。「若者」を一つの思想集団として扱えば、メディアの一般化と同じ誤りを繰り返す。

正確に言えば、若者が離れているのは、第一に紙と定時放送という利用形態であり、第二に新聞社やテレビ局を直接訪れる習慣である。

ニュースそのものから完全に離れたとは限らない。

離れた先にも、オールドメディアがいる

スマートフォンでニュースアプリを開き、SNSで記事の見出しを読み、動画配信者の解説を見る。その情報をたどると、元の取材は新聞社、テレビ局、通信社によるものだった、ということは珍しくない。

個人の発信者は、独自取材をする場合もあるが、既存報道を要約し、解釈し、批判する役割を担うことも多い。受け手は新聞紙を読んでいなくても、新聞社が選んだ議題の中で政治を考えている可能性がある。

オールドメディアは、ニュースの「目的地」としては弱くなった。しかし、社会が何を話題にするかを最初に設定する「上流」の力まで失ったわけではない。

ここに、新しい問題が加わる。

以前は、新聞社やテレビ局の編集部が、何を報じるかを選んだ。現在は、その選択を通過した記事を、検索エンジン、ニュースアプリ、SNS、動画プラットフォームがもう一度選ぶ。

一段目では、取材可能性、社論、政治家やスポンサーとの関係、法的リスクによって記事が選ばれる。二段目では、クリック、視聴時間、共有、コメントが多くなる記事が押し上げられる。

ネガティビティ・バイアスは、この二段目で特に強く働く。対立、失言、危険、怒りは、短い見出しや動画にしやすい。新聞やテレビの慎重な本文より、刺激的に切り取られた一節の方が広く届くこともある。

そのとき、受け手が見ている「偏ったオールドメディア像」は、元の記事だけで作られたものではない。編集部の選択と、プラットフォームの選択と、発信者の解釈が重なっている。

若者の離脱は、論調をさらに固定するか

ここから先は、確認された因果関係ではなく、構造から導ける仮説である。

若い読者が離れる。残る購読者と視聴者の年齢が上がる。収入が縮小する。編集部は失敗に耐えられなくなり、既存の顧客が理解しやすい形式、社内で前例のある企画、苦情の予測しやすい表現を選ぶ。その結果、新しい読者にはさらに古く、慎重で、似通った媒体に見える。

これは循環である。

一方、若者を取り戻そうとして、SNSで反応されやすい対立や不安を増やせば、今度はニュースの否定性が強まる。慎重になっても距離が広がり、刺激を強めても信頼が損なわれる。

ここで必要なのは、単に「若者向けに短くする」ことではない。事実と意見を分ける。使った統計の分母と比較期間を示す。何が未確認かを書く。最初の報道と同じ場所、同じ大きさで訂正を届ける。なぜこの論点を選んだのかを、できる範囲で説明する。

つまり、取り戻すべきなのは若者の注意だけでなく、編集過程への信頼である。

「報じない自由」には、説明する責任が伴う

新聞やテレビが、すべての事実を同じ大きさで報じることはできない。社論をなくし、無色透明になることも不可能である。

だから、読者が求めるべきなのは、完全な中立ではない。

何を事実として確認したのか。どこから先が評価なのか。反対側の有力な根拠を検討したか。後から誤りが分かったとき、同じ読者に訂正を届けたか。掲載しない自由を使う一方で、その選択に対する批判を受け入れているか。

見るべきなのは、この手続きである。

読者の側も、「新聞やテレビは全部嘘だ」と切り捨てればよいわけではない。一次資料に当たる。複数媒体の見出しを比べる。数字の分母、実数、比較期間を確認する。記事と社説、事実報道と解説を分ける。訂正記事がどこに、どの大きさで載ったかを見る。

オールドメディア離れによって、編集の権力が消えるわけではない。編集部の門を通った後に、プラットフォームという別の門が加わるだけである。

「表現する自由」は、権力に対して言葉を届けるためにある。

「表現しない自由」は、限られた媒体を編集するために必要である。

しかし、報じないことが社会から事実を消したように見せるなら、その沈黙もまた批評の対象になる。

自由な報道に必要なのは、選ばない自由を奪うことではない。何を選び、何を選ばなかったのかを問い続けられる環境である。

参考資料

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