同じ事実でも、人物像は変わる

2024年9月27日、自民党総裁選の第1回投票では、高市早苗氏が181票、石破茂氏が154票を得た。高市氏が首位だったが、決選投票では石破氏が215票、高市氏が194票となり、石破氏が逆転した。これは自民党が公表している結果である。

数字は一つしかない。しかし、そこから描ける物語は一つではない。

石破氏については、「経験」「安定」「対話」「党内非主流の改革者」と描ける。同じ人物を「決断が遅い」「政策が変わる」「党内基盤が弱い」と描くこともできる。

高市氏については、「信念」「決断力」「安全保障に強い」「党員の支持を集めた」と描ける。同じ人物を「強硬」「右派」「外交上のリスク」「分断を招く」と描くこともできる。

どれも、直ちに虚偽とはいえない。問題は、どちらの形容詞を選び、どちらのリスクを大きく扱うかである。

実際、総裁選後の毎日新聞社説は、中国への強硬姿勢と保守的な主張を掲げる高市氏に対し、国会議員が石破氏の経験や安定感を重視した、という対比で結果を説明した。日本新聞協会による各紙社説の紹介でも、この表現が取り上げられている。

この一例だけで、「新聞は石破氏を支持し、高市氏を排除した」と結論づけることはできない。石破氏は政治思想全体でリベラルと呼べる人物ではなく、安全保障では保守的な主張も持つ。ここで比較したいのは二人の「本当の思想」ではない。自民党内で相対的に穏健と見られた石破氏と、安倍路線の継承者として保守色を明確にした高市氏が、どのような言葉で読者に提示されたかである。扱うのも2024年総裁選時点の報道表現であり、その後の政治過程への評価ではない。

報道の政治性は、嘘の数字より、形容詞と論点の選択に現れやすい。

ここでいう「オールドメディア」とは何か

「オールドメディア」という言葉は、既存の報道機関を一括して批判するレッテルとしても使われる。そこで本稿では、価値判断をいったん外し、新聞社、テレビ局、通信社など、専門の取材・編集組織を持ち、紙面や放送を中心に発展してきた報道機関を指す便宜的な言葉として用いる。

新聞社やテレビ局が運営するウェブサイトも含める。紙で読むか、スマートフォンで読むかではなく、誰が取材し、誰が見出しを決め、誰が掲載責任を負うかを基準にするからである。一方、個人の動画配信者、SNS投稿者、純粋なネット専業媒体まで同じ枠には入れない。

そのうえで、新聞とテレビも同一ではない。

新聞には、購読料、広告、社論、地域の販売網がある。民放テレビには、視聴率、スポンサー、放送時間、映像としての分かりやすさがある。NHKは受信料を基盤とし、公共放送として別の制度的制約を受ける。放送には、政治的公平、事実を曲げない報道、対立する意見を多角的に示すことなどを定めた放送法上の規律がある。新聞には同じ形の法的規律はないが、日本新聞協会の倫理綱領は、正確・公正な報道、誤報の速やかな訂正、当事者の反論する権利の尊重を掲げている。

したがって、「オールドメディアが一つの意思で動いている」と考えるのは誤りである。それでも、専門職による編集、長期的なブランド、限られた紙面・放送時間、取材先との継続関係、誤報や炎上に対する組織責任という共通点はある。

その共通部分が、似た判断を生むことがある。

本当にリベラル寄りなのか

まず、「日本のオールドメディアはリベラルである」と一括して断定することはできない。

朝日・毎日と、読売・産経では社論が違う。地方紙にも幅がある。人権や家族制度ではリベラルに見える媒体が、財政や企業経営では現状維持的であることもある。安全保障、原発、社会保障、税制を一本の左右軸に押し込めることにも無理がある。

一方、「リベラル寄りに見えるのはすべて受け手の思い込みだ」と片づけるのも正確ではない。

金子智樹氏の研究は、1970年から2019年までの全国紙・地方紙50紙について、憲法記念日前後の社説2,211本を収集し、左右の論調を分析している。そこでは、地方紙全体にリベラル傾向が確認された。ただし、対象は憲法をめぐる社説である。これを経済、外交、犯罪報道など全分野に一般化することはできない。

ここから言えるのは、限定された領域ではあるが、リベラル寄りの論調には実証的に検討できる実体がある、というところまでである。

興味深いのは、読者の側が一様にリベラルではないことだ。2023年のスマートニュース・メディア価値観全国調査では、自らの政治的立場を回答した人のうち、リベラル層は29%、中間層は23%、保守層は48%だった。それでもマスメディアを信頼すると答えた割合は、リベラル層67%、中間層70%、保守層69%とほとんど変わらなかった。

日本では、米国のように、保守層が主流メディアをほとんど信頼せず、リベラル層だけが支持するという分断にはなっていない。読者の政治的立場と、媒体への信頼と、個々の記事の論調は、別の変数なのである。

権力を批判すると、なぜ左に見えるのか

報道機関は、自らを権力の監視役と位置づける。これはリベラル政党を応援することと同じではない。しかし、戦後日本では保守政党が長く政権を担ってきた。そのため、政権を批判し、行政や大企業の不正を追及するという職業的役割が、結果として保守政治への批判、すなわち左寄りの姿勢に見える場面が増える。

ただし、ここにも二つの力が働く。

政権は、最も重要な取材対象である。記者は権力を監視しなければならない一方、会見、非公式説明、政策情報へのアクセスも必要とする。批判しすぎれば情報を得にくくなり、近づきすぎれば監視役ではなくなる。

また、政治家との関係は、保守かリベラルかだけでは決まらない。与党か野党か、現実に政策を決める権力を持つか、媒体の社論と近いか、情報源として重要かによって変わる。思想的に近い政治家には好意的な論点を選び、遠い政治家には厳しい検証を向ける可能性がある一方、強い権力を持つ政治家には、思想を超えて取材上の配慮が働くこともある。

したがって、「政治家がメディアを抑圧する」という一方向の図では足りない。政治家と記者は、対立しながら依存している。

スポンサーは、本当に記事を決めているのか

スポンサーが編集部に電話をかけ、記事の内容を直接命令する。そのような場面だけを想定すると、現実の影響を見落とす。

重要なのは、命令される前の予測である。

「この表現は広告主が嫌がるかもしれない」「この企画は苦情を呼ぶかもしれない」「企業ブランドを傷つけたと受け取られるかもしれない」。明示的な圧力がなくても、その可能性を編集側が見積もれば、自主的な回避が生じる。

ただし、スポンサーを万能の黒幕と見るのも適切ではない。新聞は購読料の比重を持ち、NHKは広告を収入源としない。スポンサー企業同士の価値観も同じではない。実際の影響力は媒体と企画によって異なり、具体的な証拠なしに「スポンサーの指示だ」と断定することはできない。

それでも、企業にとって、人権、多様性、弱者保護、反差別を掲げることは比較的安全である。反対に、その政策の費用、副作用、適用範囲を検討すると、議論の中身とは別に、「弱者を切り捨てるのか」という批判を受ける可能性がある。

ここで、リベラルな言葉遣いは、既存秩序への挑戦ではなくなる。

無難とは、政治的な中心に立つことではない。自分を取り巻く関係者から、最も強い制裁を受けにくい位置に立つことである。

その位置が、ある争点ではリベラル寄りになる。

悪いニュースが選ばれる理由

人は、同程度の肯定的情報よりも、危険、損失、不正、対立などの否定的情報に強く反応する。これはネガティビティ・バイアスと呼ばれる。

17か国、1,000人超を対象に実際のテレビニュースへの生理反応を調べた研究では、平均として否定的情報への強い反応が確認された。ただし、個人差も大きかった。別の研究は、約10万5,000種類の見出し、約3億7,000万回の表示を使った実験データを分析し、平均的な長さの見出しでは、否定的な単語が一つ増えるごとにクリック率が2.3%高まると報告している。

後者は米国のオンライン媒体を対象とした研究であり、日本の新聞やテレビに数字をそのまま当てはめることはできない。それでも、否定的な表現が注目を得やすいという基本的な仕組みを示す資料にはなる。

政府、大企業、富裕層、多数派を「強い側」、生活者、少数者、若者を「弱い側」と配置すると、加害者と被害者が明確な物語を作りやすい。権力監視という職業倫理、弱者保護というリベラルな価値観、視聴率やクリックを求める商業性が、同じ方向に重なる。

ただし、ネガティビティ・バイアス自体に左右はない。犯罪、外国人、治安、領土、安全保障を脅威として選べば、右寄りの物語を強くする。左右を決めるのは、人間の認知傾向そのものではなく、誰を脅威、加害者、被害者として配置するかである。

読者を「悪いニュースに踊らされる愚かな大衆」と見るべきでもない。危険に注意を向けることは、生存のために必要な能力でもある。問題は、その性質が視聴率、PV、SNSで数値化され、編集判断に戻されると、否定的な物語が市場によって増幅されることだ。

記者の文化は、どこまで影響するのか

新聞やテレビの記者は、大都市で働き、高等教育を受け、社内外の専門家と継続的に接することが多い。その環境が、一般の読者より社会的・文化的にリベラルな価値観を形成するのではないか、という仮説は成り立つ。

大学教育、都市で異質な他者と接触する経験、同業者間の規範、採用時の選抜が影響する可能性もある。

しかし、日本の記者個人の政治意識と実際の記事内容を直接結びつけた公開データは十分ではない。ここを事実として断定すれば、「記者は高学歴だから左傾化する」という別の物語を作るだけになる。

さらに、個人がリベラルでも、組織の決定がリベラルになるとは限らない。記者が書いた原稿は、デスク、編集部、法務、経営判断を通過する。個人の信念より、前例、訂正リスク、取材先との関係が強く働くこともある。

したがって、記者文化は有力な仮説の一つだが、単独の原因ではない。

理念はリベラル、行動は保守的

日本のオールドメディアを考えるうえで、最も興味深いのはこの二重性である。

理念としては、権力を監視し、少数者や弱者に寄り添い、人権と多様性を尊重する。言葉遣いはリベラルに見える。

一方、組織としては、記者クラブ、取材先との非公式な関係、過去の社論、社内の編集権限、業界内の慣行を維持する。自社の誤りを大きく訂正したり、同業他社の構造的問題を継続して追及したりすることには慎重になる。

日本のメディアと政治の関係を歴史的に分析した2024年の研究は、記者クラブを中心とする政治との相互依存が、自己検閲や画一的で保守的な報道を生み得ると論じている。これは、「新聞は左、政府は右」という単純な対立図とは違う。

価値観としてリベラルでありながら、制度については保守的である。むしろ、リベラルな道徳語彙を共有しているからこそ、その語彙の範囲内で似た記事が作られ、業界内では安全になる場合さえある。

誰か一人が命令しているわけではない。記者、デスク、経営者、スポンサー、読者、政治家が、それぞれ自分の立場から損失を避ける。その結果、誰も意図していなかった「無難な正しさ」に収束する。

これは、メディアにおける「悪意なき保身」と呼べる。

問題は「左か右か」だけではない

リベラル寄りの論調が多いこと自体を、ただちに悪とみなす必要はない。人権侵害や差別を告発し、権力を監視してきた報道には、明確な社会的価値がある。

同時に、正しい目的を掲げていることは、個々の記事が正確であることを保証しない。

何を報じたかだけでなく、何を報じなかったか。誰のリスクを強調し、誰のリスクを省いたか。肯定的な事実と否定的な事実を同じ基準で扱ったか。最初の物語と合わない新事実が出たとき、同じ大きさで訂正したか。

オールドメディアの信頼を左右するのは、最終的には左右の位置より、この手続きである。

そして、何を報じないかを選ぶこともまた、編集の自由に含まれる。しかし、その自由が同じ方向に繰り返し使われれば、存在するのに見えない事実が生まれる。

次稿では、この「表現しない自由」と、新聞・テレビから若者が離れていく現象を考える。

参考資料

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